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SEJ 日本のエネルギーを考える会

138号  反原発の“空気”に“水”をさすには


カテゴリ:  会員の声    2017-2-23 14:18   閲覧 (1671)

今、日本の原子力界を俯瞰してみると、一部マスコミが作った反原発“空気”に支配され、原子力を捨てようとしている。反原発を誘導する“空気”が、原子力の正常化を妨げているのではないかがここでの考察の対象である。

1.“空気”とは;



日本の社会では、何か重大な決定を行うとき、「空気」が形成され、それが成長し、人々の自由な言動を金縛りにし、その「空気」によって非合理的な決断がなされてきた。
その例は、太平洋戦争に突入する前、軍や政府の幹部たちはこの戦争に勝てるはずはないことを知っていながら、猛威を奮っていた「空気」に支配され、誰一人正論を主張できず、一億総玉砕何するものぞ、とばかりに負け戦に突入して行った歴史に明白である。戦後、軍幹部は「何故、負け戦と判っていながら、抵抗しなかったのか」と問われ「あの雰囲気で抵抗できるものは一人もいなかった」と答えたという。これこそ「空気」支配の代表的なものである。
今、日本の原子力界を俯瞰してみると、一部マスコミが作った反原発“空気”に支配され、原子力を捨てようとしている。
反原発を誘導する“空気”が、原子力の正常化を妨げているのではないか、がここでの考察の対象である。

2.“空気”の特性:


“空気”は一般にさまざまな禁句を作る。1mSv/yのレベルまで除染するなどばかげた話である、という言い草は特に福島地区では極めて重い“禁句”である。また、“空気”は科学的説明を受け付けない。ラジウム温泉の放射能は健康に良いが、原発に絡んだ放射線は忌避されるべき放射能であるという表現に対し、いくら科学的説明を試みても納得してもらえない、というのがその例である。これらはまた、“空気”に関与する全ての人を例外なく“金縛り”にする。思考の自由が奪われることを“金縛り”と言う。
こうなると電気事業者はもちろん規制当局も軽微なトラブルに対して毅然とした科学的説明ができない。軽微なトラブルとは、社会通念に従えば、許容できる“落ち度”のことであるが、それさえ許されない異常判断が幅を利かし、その主張に本来なら常識的判断を行うはずの普通の人が振り回されるのである。勇気を持って反論しようものなら、「空気」がそれを開き直りと捉え、マスコミから受ける誹謗中傷はただ事でない。福島事故では人ひとり死んでいないといった高市大臣や1mSv/yは何の問題もないといった丸川大臣は公の場で涙を流して謝罪した。“空気”がこれらの発言を禁句としており、それに触れたらただでは済まない例である。

3.原子力社会現象:


このようなことが想定されるので、事業者は運転再開が技術的根拠もなく引き伸ばされるのを恐れ、「ごめんなさい」的対応に追われ、過剰な再発防止対策を余儀なくされてきた。これらを「原子力社会現象」と呼ぶ。このようなじめじめした状況は日本固有で世界では見られない。このようなじめじめした状況を作り出している“犯人”はどこにいるのだろうか。
固定倫理と状況倫理
 子供がパンを盗んだとする。このとき、子供の貧しい家庭環境を考えれば盗みもある程度やむを得ない、という判断を可能にする。我が国では、このような情状酌量は概ね歓迎される。これが状況倫理である。


西洋の固定倫理は、盗みは子供がやっても王様がやっても悪い、といって譲らない。王様が罰せられた例は知らないが、罰せられて当然という倫理である。これが固定倫理である。このような掟は我々にはない。
 西洋人は日本人のように“空気”に影響されない。また、個人的問題に関して“空気”は起こり得ない。何かの問題に関して、賛成か、反対かを集団で決めようとするきに、いつもとは限らないが、“空気”のお出ましとなる。“空気”が決めるといったスタイルを取る。このとき、西洋と日本とでは、集団が取る方法に差がある。日本の集団は物事を決めるときには、「全員一致を旨とする」が、西洋では「全員一致の議決は無効とする。」この違いは、農耕民族と狩猟民族の違いに帰せられるが、その理由は別の機会にしたい。この違いが日本では意思決定に影響を及ぼす“空気”が存在し、外国には存在しないことの理由になる。
そもそも、個人では解決困難な問題を“空気”の力を利用して、問題解決を図ろうとする狙いが“空気”の存在理由であり、そのとき、個人の責任回避は実現される。



4.絶対安全と社会通念:


一言でいえば、我々の多くは、福島原発事故の悲惨さを臨在感的に把握し、その金縛りにあって、原発は嫌だ、という思いの虜になってしまっている。この雰囲気は”空気“の特性の一つである。こうなると、思考停止に陥り、原子力の可能性でさえ“禁句”となる。世界の原発推進への動きなどに対して目もくれない。状況を客観的に考えられなくなる。結果的に日本独特の異常な社会現象が生み出されているのである。


これらの状況を倫理的に支えているのは悲惨さに裏付けされた“絶対安全”の要求であり、市民やマスコミの支持を得て、原子力利用の大きな障害になっている。ちなみに、“絶対安全”とは、規制値の一億分の一の放射能漏れも許さず、原子炉はチェルノビル事故にも耐えなければならないという非現実的要求に根拠を与えている概念である。
“絶対安全”の対立概念は言わずと知れた“社会通念”である。これは、長期に渡って我々の日常生活に全く支障を及ぼさないとすれば、安心して許容できるという見方である。微量の放射能漏れがこれに相当し、トリチーム水を希釈して海水に放出している事実は長年続いているが、それが世界の人々の生活に支障をきたしているという話は聞いたことがない。「トリチーム水を薄めて海に流す行為は人間が生きていくうえで支障は無視できるほど軽微である」という思いが社会通念である。
この社会通念という考え方が原子力の問題を正当に扱う上で大変重要なものであることを公式に表明したものは、平成19年10月26日に出された浜岡原子力発電所運転差止に関する判決書[2]に出てくる次のような文面である。原子炉施設に求められる安全性の項で、判決書は次のように記述している。

『ここにいう「原子炉施設の安全性」とは、起こり得る最悪の事態に対しても周辺の住民等に放射線被害を与えないなど、原子炉施設の事故等による災害、発生の危険性を社会通念上無視し得る程度に小さなものに保つことを意味し、およそ抽象的に想定可能なあらゆる事態に対し安全であることまでを要求するものではない。』

ここに、我々は、絶対安全と社会通念との対立をみる。

5.“空気”に“水”をさす:


原子力における誤った安全神話”絶対安全”の思想が、日本的平等主義に起因する“集団倫理” のなかで空気が生成された。では、この「空気」に「水」を差すにはどうすればいいのだろう。




 我々日本人は、物事を集団で決めようとするとき、物事が新聞記事として取り上げられ、それが社会的事件に発展する場合には、“空気”が生成され、人々を拘束し、それに逆らうものがあれば糾弾される、という状況に置かれ、そういう過程を経て物事が決められていくことに抵抗できない。新聞やマスコミはこの社会現象を活用する。その結果、個人は責任を免れ、自ら解を探すという労力は省かれ、ただ大勢に従っていればよいということになり、それに身を任せることになる。現在の反原発の“空気”の結果はどうなるであろうか。


「空気」に「水を差す」方法のよりどころは「社会通念」にある。
この反原子力の“空気”に水を差す方法は、浜岡裁判の判決に言う「社会通念」であろう。しかし、この「社会通念」を持つのに大きく抵抗するのも“空気”である。この“空気”の克服なくして日本の原子力は正常化できるだろうか。正常化できなければ、エネルギー資源をほとんど持たない我が国は、衰退の一途を辿り、隣国の属国と化すのではないかという“恐れ”を消せない。
                           (宮 健三 記)
参考文献:
[1] 山本七平:「空気」の研究、文芸春秋、1983
[2] 浜岡原子力発電所運転指し止めに関する判決書 2007


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